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松井 秀喜(まつい ひでき)HIDEKI MATSUI
生年月日/1974年6月12日
出身/石川県能美郡根上町(現:能美市)
身長/約188cm
体重/約99.8kg
投球・打席/右投左打
血液型/O型
チーム/
星稜高等学校
読売ジャイアンツ (1993 - 2002)
ニューヨーク・ヤンキース (2003 - 2009)
ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム (2010 - )
愛称/ゴジラ
代理人/アーン・テレム
中学時代

小学校から続けていた柔道を続けるか悩むこともあったが根上中学校に進学して野球に専念するようになった。中学時代は捕手をつとめ、2年夏から投手に転向した。通算打率は6割を超え、3試合連続本塁打も放ったことがある。3年生になると飛距離は130mにも達し、軟球を割ることもしばしばあった。代わりのボール代だけでも半年間で10万円を超えることになったという

高校時代

1990年
星稜高等学校に入学。既に松井の実力を高く評価していた星稜高校の山下智茂監督からの熱烈な勧誘や、中学野球部の監督やコーチに薦められて星稜に進学することに決めた。
1年生から4番打者を務める、選抜出場を逃す。この年には、練習試合で愛工大名電と対戦しており、当時2年生のイチローと初めて顔を合わせ、一塁ベース上で言葉を交わしている
1991年
高校2年夏の甲子園では、初戦(2回戦)沼津市立高戦では松井の走塁で沼津市立高をかき回し接戦に勝利した。3回戦の竜ヶ崎一戦でライトスタンドに甲子園初本塁打を放った。準々決勝では松商学園に勝利して北信越大会の借りを返す。夏休みに部内で体力測定を行った際、背筋力250kg、バーベル上げ150kgと、関係者曰く「清原和博以来の数値」を出した。
1992年
高校3年春のセンバツでは、阪神甲子園球場のラッキーゾーンが撤去されて本塁打が激減したにもかかわらず、松井は開幕試合である初戦の宮古戦で2打席連続本塁打、1試合7打点、2試合連続本塁打と、当時の大会記録をマークした。2回戦で堀越のエース山本幸正から難しいカーブを本塁打したのを長嶋茂雄が見ていたのがきっかけで巨人入りしたという話は有名である
夏の甲子園は2回戦の対明徳義塾戦で敗退。この試合で松井が受けた5打席連続敬遠は、高野連が急遽記者会見を開くなど、社会問題にまで発展した。明徳義塾の馬淵史郎監督は試合後、『(星稜の練習を見て)高校生の中に一人だけプロの選手が混じっていた。』とコメントしている。 高校通算打率は.450、本塁打は60本(ホームランボールは60個全部は揃っていないという)。高校通算60号は国体の対尽誠学園戦の第4打席、高校最終打席で記録。ちなみに、「柵越えしたものがホームラン」という松井のこだわりから、ランニングホームランは数に含まれていない。
11月21日のドラフト会議で巨人、阪神、中日、ダイエーの4球団から1位指名を受け、抽選の結果交渉権を獲得した巨人に入団。契約金は1億2,000万円。年俸は720万円。

読売ジャイアンツ (1993 - 2002)

巨人入団会見で、他の新人選手が抱負として憧れの選手名、具体的な成績目標を述べる中、松井は「サッカーや相撲に小さな子供たちの関心が傾きつつあります。その中で僕はその子供たちに夢を与え、球場に直接見に来てもらえるような選手になれるよう頑張ります」と述べた。
1993年5月1日の対ヤクルトスワローズ戦(東京ドーム)に7番・レフトで一軍デビューを果たした。
初打席は西村龍次からセカンドゴロ。2打席目には同じく西村からライトフェンス直撃の二塁打を放ち、初安打初打点を記録。翌日の試合では、9回裏に高津臣吾から内角の直球(ヤクルトの野村克也監督が松井が内角球に強いという話を確かめるために高津に投げさせた。別の説では当時の高津はストレートで勝負する癖があったためおまえのストレートは左の強打者にはこんなもんだと示したかったため投げさせたとも。)をライトスタンド中段に運びプロ入り初本塁打。興奮の余り、試合後ロッカールームから引き揚げる際、足元はスリッパのまま「打っちゃった」と喜びを露わにした。
1994年開幕戦で2本塁打。4月には自身初の月間MVPを受賞した。同年のオールスターゲームではセ・リーグ史上最年少で4番を打った。中日ドラゴンズとのリーグ優勝を賭けたシーズン最終戦「10.8決戦」でも本塁打を放つなどチームのリーグ制覇に貢献。迎えた日本シリーズでは西武ライオンズを破りチームは日本一、自身も2年目で20本塁打を記録した。
1995年22本塁打を放ち、初のベストナインを受賞。8月24日の対横浜戦でレギュラーシーズンでは初の4番を打った。
1996年自身初の開幕4番スタートだったが、5月からは落合博満が4番に返り咲き、松井は3番に戻った。その後夏場には7月、8月と2か月連続で月間MVPを獲得するなど、大逆転優勝に大きく貢献。初のセ・リーグMVPを受賞した。
130試合に出場し、打率3割1分4厘、38本塁打、99打点の成績で、名実ともにスーパースターの仲間入りを果たした。オフには各種表彰、パーティーの出席が相次ぎ、取材も殺到。契約更改では倍増の1億6000万円で一発サインした。高卒選手ではイチローと並ぶ史上最短(当時)の入団4年目で1億円プレーヤーの仲間入りを果たした。
1997年4月27日の対広島戦で通算100本塁打を達成。
1998年キャンプ中に左膝を痛め。そのまま左膝の具合が思わしくないままシーズンを過ごし、その影響でプロ生活最大のスランプにも悩まされた。
その後は順調に打ち続け、7月28日の対ヤクルト戦で通算150本塁打を達成。最終的には34本塁打、100打点で自身初のタイトルとなる本塁打王、打点王、最高出塁率のタイトルを獲得。オールスター戦では4試合連続本塁打(新記録)を放った。
1999年9月21日の対阪神戦では通算200本塁打を達成。
2000年7月12日の対広島戦で通算1000本安打を達成。最終的に135試合全イニングで4番に座り、いずれも自己最高の打率3割1分6厘、42本塁打、108打点をマーク。
日米野球では、メジャーリーグ選抜のボビー・コックス監督に「ゴジラはいいねえ。バットスイングが速い」と称賛された。この時点では「大リーグなんて、そんな」とメジャー挑戦に否定的だったが、「野球をやっていて、大リーグを全然考えないと言ったら、うそになるかもしれません」と2年後のFA移籍に含みを持たせた。
2001年4月12日の対中日戦に1000試合目の出場で通算250本塁打を達成。5月3日の対中日戦で当時史上5人目の1000試合連続試合出場を達成。この年、初の首位打者のタイトルを獲得長嶋監督は松井の素振りを欠かさず見た。球場でも遠征先でも毎日、毎晩。スイングの音まで入念にチェックした。「本当に厳しい人で、褒められたことはない。でも、人生の中で最も影響のある、大きな存在だった」と松井は言う。初めて首位打者を獲得したのを見届けるようにして長嶋監督が勇退。
。 2002年4月13日にFA権を取得。7月9日に黒田博樹から通算300号本塁打を放つ。三冠王目前だったが、首位打者争いで福留孝介にタイトルを譲った。打率、本塁打、出塁率では自己最高の成績で、本塁打王、打点王、最高出塁率、シーズンMVPを獲得した。
シーズン終了後の10月11日には原監督と16日には土井球団代表とそれぞれ会談。長嶋前監督とも長時間会談し、残留を要請されたが、結論は日本シリーズ後に持ち越した。日本シリーズで西武を下し、日本一の栄冠に輝いた翌日の11月1日、FA権を行使してアメリカ・メジャーリーグへの挑戦を表明「最後の最後まで悩んで苦しかった。何を言っても裏切り者と言われるかもしれないが、いつか『松井、行ってよかったな』と言われるよう頑張りたい。決断した以上は命を懸ける」と決意を語った。

ニューヨーク・ヤンキース (2003 - 2009)

2003年ニューヨーク・ヤンキースの一員としてメジャーリーグでのキャリアをスタート。3月31日、公式戦開幕試合の対トロント・ブルージェイズ戦に5番レフトで先発出場し、初回にメジャーを代表する右腕のロイ・ハラデイ投手からレフト前へのタイムリーヒットを放ち、初打席・初安打・初打点を記録。4月8日の本拠地開幕戦、対ミネソタ・ツインズ戦では前打者のバーニー・ウィリアムスが敬遠された後の打席で2−3からジョー・メイズの145km/hをライトスタンドに叩き込み、第1号満塁本塁打
4月12日にはメジャー初のサヨナラヒットを放つ。7月に行われたMLBオールスターゲームにファン投票のア・リーグ外野手部門で3位に入り初出場を果たした。地区シリーズではポストシーズン日本人初のホームランを放った。ボストン・レッドソックスとのリーグ優勝決定シリーズ第7戦では、8回裏にホルヘ・ポサダの適時打で同点のホームを踏んだ際に大きく跳び上がり、全身で喜びを表した。
2004年重心の位置を下げてスタンスを広めにしたことにより、左方向へのHRも増加した。6月4日には、前年より41試合早い53試合目で10号本塁打に到達。5月最終週には二度目の週間MVPも受賞した。6月19日、20日の対ロサンゼルス・ドジャース戦ではメジャー移籍後初の2試合連続本塁打を放った。前半戦だけで前年を上回る17本塁打に到達。オールスターゲームにはファン投票外野手部門での選出こそ惜しくも逃したが、最終投票で120万票を集めて選出され、「三十二番目の男」として2年連続で出場を果たした。トーリ監督からはホームランダービーへの参加を打診されたが、「僕が出たらビールの缶が飛んでくる」と辞退した。7月15日には日米通算350本塁打達成、 シーズン31HRをマークし、打率こそわずかに3割を下回ったが、三部門全てで前年を上回る好成績を残し、ヤンキースの主軸打者としての地位を確立した。プレーオフでは打棒が爆発し、11試合で51打数21安打、打率.412、3本塁打、13打点、OPS1.221を記録。
2005年6月20日には自身3度目の週間MVPを受賞(6試合で打率.455、3本塁打、10打点)7月28日は、アーニー・バンクスを抜いてメジャーデビューから425試合連続出場の新記録を樹立シーズンを終えてみると、3年連続で全試合出場を果たすと共に、メジャーでは自己最高となる打率.305、116打点を記録。9月8日には日米通算400本塁打を達成。ヤンキースと4年総額5,200万ドルで契約を延長。
2006年開幕戦で1本塁打を含む4安打を放ち、幸先の良いスタートを切る。4月18日にはデビュー以来500試合連続出場を達成。 しかし5月11日マーク・ロレッタの放った浅めのフライを滑り込んでキャッチしようとした際にグラブが芝生にひっかかり、左手首を故障、そのまま途中交代した。巨人時代の1993年8月22日から続いていた連続試合出場記録が「1768」で途切れた。ニューヨーク市内の病院で左手首(橈骨)骨折と診断。
翌朝に手術が行われ、リハビリ生活に入る。8月17日には98日ぶりにベンチ入りし、8月30日にはフリー打撃を再開した。9月12日、124日ぶりに対タンパベイ・デビルレイズ戦ヤンキー・スタジアムに8番・指名打者で先発出場。満員の観衆からスタンディング・オベーションで迎えられ、4打数4安打の活躍で復活を遂げた。復帰後は14試合で打率.430を記録するなど好調で、最終的には51試合の出場ながら打率.302をマークした。
2007年2月、著書『不動心』(新潮新書)を刊行。自らの人生を振り返りながら、心構えや思考法を説いた本書は30万部を超えるベストセラーとなった。
5月6日、本拠地での対シアトル・マリナーズ戦で、日米通算2000本安打を達成。日本から駆けつけた金田正一名球会会長の目の前での快挙達成であり、名球会入りを果たした。当初は外野手のエラーと記録、後にツーベースに訂正された。直後判定に両チーム乱闘が起こった。試合後のインタビューにて、記念のボールについて問われると「エラーだと思ったから、どっかにいっちゃった」と発言し、周囲を笑わせた。
その後は打撃不振に陥ったが7月に入ると一転して打撃好調で打ちまくり、出場28試合で打率.345、28打点の成績。長打率.735、13本塁打、31得点はリーグトップだった。 8月2日には、7月のア・リーグ月間MVPに選出された。2003年6月に月間新人MVPを受賞しているが、月間MVPは初受賞。8月5日、ヤンキースタジアムでのロイヤルズ戦で、メジャー通算100号本塁打を達成。シーズン終了後の11月14日にニューヨークの病院で右膝の軟骨を除去する内視鏡手術を受け、無事に成功した。
2008年3月26日、富山県出身の25歳日本人女性(元OL)とアメリカ合衆国ニューヨーク市内で挙式。開幕は「8番・DH」からのスタートとなったが、序盤は打撃が好調で打順も上がり、一時は打率.337で首位打者に立った。4月から5月にかけては自己最長となる19試合連続安打を放った。6月18日の試合前、突然古傷の左膝に痛みが走り、患部に溜まった水を抜く治療を受けた手術を拒否し2ヶ月に渡る治療・リハビリののち、8月19日の対ブルージェイズ戦から復帰、主に「7番・DH」として出場を続けたが、万全には程遠く打撃は低迷。最終的に打率は3割を下回る.294、安打数は99、本塁打も一桁の9本と寂しい成績に終わった。
2009年開幕戦では4番・指名打者として出場、7回に2点本塁打し、恩師である長嶋茂雄の通算444号を超え、日米通算445号となった。5月27日テキサス・レンジャーズ戦では、日米通算450号となる6号本塁打を含む2打席連続を放った。9月19日の対マリナーズ戦で26号本塁打を放ち、ドン・ベイラーを抜いて指名打者での年間最多本塁打の球団記録を更新した。メジャー移籍後では2番目に多い28本塁打を放ち、チーム3位の90打点を叩き出す勝負強さで3年ぶりの地区優勝に貢献した。
ポストシーズンには主として「5番・指名打者」として出場。ミネソタ・ツインズとの地区シリーズ第1戦では、試合を決定付ける2点本塁打を放った。ロサンゼルス・エンゼルスとのリーグ優勝決定シリーズでは初戦で2打点と活躍しヤンキースは4勝2敗でエンゼルスを下し、6年ぶりにワールドシリーズへと駒を進めた。前年の覇者フィラデルフィア・フィリーズとのワールドシリーズでは5番に復帰し、持ち前の勝負強さを存分に発揮した。
初戦は1安打のみに終ったが、第2戦では1-1の同点で迎えた6回裏に、ペドロ・マルティネスから決勝本塁打を放った。フィリーズの本拠地シチズンズ・バンク・パークで行われた第3〜5戦は、指名打者が使えないため代打での出場となった。第3戦では2試合連続となる本塁打を放ち、第5戦でも左前打を放つなど、わずかな出番ながらも結果を出した。ヤンキースの3勝2敗で本拠地に戻った第6戦では先発に復帰し、2回にペドロ・マルティネスから先制の2点本塁打を放つと、3回には中前適時打、5回にも右中間を破る適時二塁打で2打点ずつを加え、ワールドシリーズ・タイ記録となる1試合6打点をマークし、スタジアムのファンからは「MVP!」の大歓声が沸き起こった。
9年ぶりの世界一に貢献し、13打数8安打3本塁打8打点、打率.615、OPS2.027で日本人選手初、フルタイムの指名打者としても初めてとなるワールドシリーズMVPに選出された。
また、日本シリーズMVPとワールドシリーズMVPを共に受賞した初の選手となった。
ヤンキースとの契約満了に伴い、11月9日にFAを申請した。
ヤンキースのブライアン・キャッシュマンGMは松井よりアンディ・ペティット、ジョニー・デイモンとの交渉を優先し、一時は去就問題決着は越年が濃厚と見られていた。松井は「ヤンキースで現役を終えたい」とヤ軍残留を望んでいたが、最後までヤンキースからのオファーはなかった。


ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム (2010 - )

2010年開幕戦から4番に座り、前年同様指名打者での出場を主とし2008年6月以来の左翼手の守備にも就く試合も少数ながらある。4月6日には開幕戦4度目のホームランを記録した。4月14日チャンピオンリング授与式では古巣ニューヨークのファンからスタンディングオベーションの歓声を受けました。
4月26日の対インディアンス戦でメジャーリーグ通算1000本安打を達成、更に後の打席でメジャーリーグ通算500被三振を喫した。 6月26日のロッキーズとのインターリーグ3連戦第2戦で満塁本塁打を放ち、メジャー通算150号を達成した。


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